映画『ミスト』は結局何が言いたかったのか?【考察】

はじめに

この映画はネタバレ要素がかなり強いです。初見のときの自分の反応を覚えておくことが一番の楽しみになりますので、ぜひ一度観てからお読みください。

 

 

 

 

※※※ネタバレ注意※※※

 

 

 

 

 

結論 〜何を伝えたかったのか〜

最後まで諦めないこと。絶望しても簡単に死なないこと。傲慢にならないこと。解釈は人それぞれですが、私の主張はこうです。

『短絡的な問題解決に夢中になると、目的を見失う』

 

ラストシーンの意味

まず、必ず話題になるのは衝撃的なラストシーンでしょう。ガス欠で止まってしまった車。主人公デヴィッドは絶望し、怪物に食われるくらいなら、と仲間を銃で撃ちます。一人生き残ってしまった主人公のところへ戦車が通りかかり、すぐそこまで助けが来ていたことを知ります。結果的にカルト女カーモディの方が生き残ることができた。

集団自殺をしたのはカルト女ではなく、主人公。つまり彼こそが危険な扇動者だった、というのが一般的なオチの解釈です。また、登場人物のほとんどが主人公のせいで死んだという考察もあります。発電機を止めなければそのまま壊れていただろうし、ノームは死ななかった。黒人弁護士に下手な話をしなければ出て行くこともなかった。緊急時にライトをつけろと言ったのも、薬局に薬を取りに行こうと言ったのも、霧の原因を問い詰めたのも・・・見返してみると面白いほど主人公のせいです。

確かに主人公デヴィッドは扇動者でした。では、この映画の伝えたいことはなんだったのでしょう?

 

「結果がすべて」は正しいのか?

主人公はわざとらしいほど善人として描かれてきました。シャッターを開けたノームを真っ先に助けたり、火傷を負った人のため危険な薬局に行ったりしています。蓋を開けてみれば死んだのは彼のせいだったわけですが、善意でやっていたことに変わりはありません。そんな彼に最悪の結末を用意するなんて、何を伝えたかったのでしょうか。

「いくら過程が正しくても結果が全て」ということでしょうか。確かにそう捉えることもできます。その場合、この映画はかなり胸糞が悪く、救いもないことになります。しかし、それがテーマだとしたらあまりに浅いと私は感じます。矛盾はありませんがメッセージ性もない。「過程が正しくても結果が全て」だから「〇〇すべきだ」というような解答もありません。同じ理由で「結果が何であれ、主人公が正しい」も違うと思います。

つまり、私の主張は「主人公の何かが間違っていて、その結果絶望が待っていた」のではないかということです。

 

デヴィッドとノートンは何を間違えた?

主人公の何が否定されているのか。それにはこの映画の構造についてもう一度考える必要があります。映画には3つの派閥が登場します。

  • 黒人弁護士 ノートン
  • 主人公 デヴィッド
  • カルト女 カーモディ

はじめに黒人弁護士たちが店から出ていき、主人公たちが出ていき、カルト女派が生き残った。「主人公こそがカルトだったというオチ」と同時に、「心の底でバカにしていたであろう黒人弁護士とも同じ行動をとっていた」という二重のオチなわけです。

 

では、店から出た二人の目的はどうでしょう。黒人弁護士は救援を呼んでくるためと言っていましたが、真意は違います。その証拠に、主人公にモンスターの話をされるまでは保守的な考えでした。最後主人公に引き止められるシーンでもヒントが隠れています。主人公に「間違ってたら?」と聞かれるも、「もしその場合はーー私は愚か者だということだな」と嘲笑します。つまり、本当の理由は「自分が愚かにならないため」であったのではないでしょうか。

主人公たちが店を出る目的は何だったのでしょう。相談をするシーンは二度あります。はじめはカルト女が皆を扇動し、生贄にされないためと言っていました。しかし次のシーンではよく聞くと「ここにいたくない」という理由にすり替わっています。生存ではなく感情を優先し行動を決定する、全く同じ構図です。もしもカルト女がいなかったら、生存のため店で助けを待つ選択をしたはずです。

 

カーモディは善人だった

カルト女はどうでしょうか。皆を扇動し結果的に救ったものの、正しい目的をもっていたのでしょうか。実はそれがわかるシーンがあります。トイレで天の神様と話しているときのセリフです。

「悪人ばかりでないはず 全員が悪人ではありません 何人かは救うことができるはずです

そう あなたの赦しによってーー天国の門をくぐれるはずです

でも彼らのうち多くはーー永遠に地獄の炎の中にいる

もし何人か救えたら たとえ一人でも…私の人生に意義が見いだせます 私は役割を果たせるのです

そしてあなたのそばへ行ける」

生贄を捧げるシーンでも、暴行を受ける姿にとてもショックを受けています。しかしその後、店を去ろうとする主人公たちを罪人と決めつけ生贄にしようとしたところ、逆に射殺されてしまいます。一人でも救うという最初の目的は達成されましたが、侮辱されたことを許せず、最後に目的を間違えてしまいました。

こうして見ると、三人ともが目的を間違えて死んでいます。逆に、その時一番大切にしていた目的はすべて達成しています。

 

安易な解決策はーー

このように目的を簡単に間違えてしまった登場人物たちですが、それが示唆されているセリフが二つほどあると考えています。

一つ目は、主人公のいうことを聞かず、シャッターを開けようとしたシーン。わざわざ危険を冒すことが理解ができない主人公に、オリーの言ったセリフです。

固執しているんだよ」

「なぜ?」

「異様な状況の中でーーこれだけは解決できそうな問題だからだ」

感情を解決しようとした黒人弁護士も、ショットガンを取りに行ったおじさんも、主人公が薬局に行き犠牲者を増やしてしまったのも、すべてがこのセリフに集約されています。

 

二つ目は、初めて主人公たちが店から逃げる相談をしている場面です。カルト女と信者たちが生贄を捧げるのでは、と案じるおじさんが言った一言です。

「恐怖にさらされると 人はどんなことでもする

”解決策”を示す人物に 見境もなく従ってしまう」

これもまさに主人公に扇動される人々に返ってくる言葉です。ライトをつけてしまった人はまさにそうでしょう。安易な解決策は蜜の味、ということですね。

 

主人公は全てを助けるヒーローのように感じますが、実際はそうではありませんでした。解決できそうな問題に固執していたにすぎません。そもそも彼は、序盤で子連れの女の人を見捨てています。(彼女はラストシーンで軍用車に乗って登場しました)

 

だから、この映画が伝えたかったのは

『短絡的な問題解決に夢中になると、目的を見失う』ということではないでしょうか。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

余談:傲慢と仕掛け

私は試聴している途中、この映画のテーマは「傲慢な人は痛い目を見る」なのだと思っていました。実際は主人公を含め、観客さえも傲慢だという皮肉だったわけですが。そもそも傲慢さを批判するならば、傲慢でない人間が登場する必要があると思います。そのうえで「このようになるべきだ」と主張するはずです。

では傲慢というテーマには何の役割があったのかというと、ミスリードだと考えています。序盤あからさまなブーメラン発言がいくつもありましたよね。「私を馬鹿にするな」と言っているが、馬鹿にしているのはそっちだろう、と。それは最後のシーンのための布石だったと思います。カルト女が「傲慢な連中、自分だけは特別なつもり」と店を出ようとする主人公たちに言います。観客は「またか。それはお前のことだろう」と呆れますが、実際はそれが正しかった、という。見事に騙されました。

しかし、「傲慢であるかどうかは生き死に=善悪に関係ない」という私の解釈はかなり気に入っています。観客を騙しておきながら、批判はしていないという。分かりにくいですが。

本を読め? YouTubeでいいじゃん 〜本質的なメディアの特徴〜

本を読めとは言いますが、現代ではYouTubeやブログでいいような気がします。現代でも本を読む意味って本当にあるんでしょうか。

 

本の役割

私は、本には大きく分けて「主義・主張」「物語・娯楽」「知識・教養」の3つの役割があると思います。つまり人間は、この中のどれかか、もしくは複数を求めて読書をするのだということです。

小説を読む人は娯楽とちょっとの主張を求めているかもしれません。ビジネス書を読む人は新しい知識や主張、考え方を求めているかもしれません。あるいは単純に娯楽として楽しんでいる人もいるかもしれません。

 

というわけで今回は、「主義・主張」にフォーカスして考察していきたいと思います。

 

 

主義・主張という役割での本

主義とはスタンスのことで、何を大切にするかという思想のことです。社会主義は社会を、民主主義は民主を、全体主義は全体を、能力主義は能力を大切にするスタンスです。

それに対して主張とはもっと積極性を持ちます。主義が考え方なのに対して、主張は「こうするべき」「こうしたらどうだろう」というような意見です。

さて、これらの情報を伝達するものとして見た時に、それぞれのメディアはどう映るでしょうか。

 

 

様々なメディア

主義・主張が最も反映される書籍というと、ビジネス本エッセイなどがあげられるでしょうか。

同じく主義・主張が反映されやすいメディアというと、次のようなものが考えられます。

  • ブログ
  • 動画投稿サイト(YouTubeなど)
  • SNSTwitterなどの活字媒体)

YouTubeTwitterはものよって主張が強いものから娯楽的なものまであります。ここでは、例えばひろゆきさんやメンタリストDaiGoさんのような主義・主張の濃い動画を指しています。

 

また、あまり色濃く出るわけではないですが、一応の主張を感じられるメディアは

  • テレビ
  • 新聞
  • ラジオ

などでしょうか。これらは主張がなくはないですが、かなり少ないと思います。例えばテレビでは放送法第4条によって政治的に公平であることが義務付けられている、などの制約があるためです。

さて、これらの何が本と違うのでしょうか。

 

 

どこの馬の骨だかわからない人

まず、人の信憑性が違います。

上にあげた3つのネット媒体は、誰でも無料で簡単にアップロードすることができます。それに比べて本は、出版社が売れそうだと考える人物でないと出版は難しいです。そうなると必然的に本の方が名がある人の洗練された意見が多い傾向にあります。

 

逆にネット媒体では、いろんな人の意見が聞けるのが大きな強みとなっています。例えば、普段全く関わりのない高校生の考え方はどうなのか。どのような人がこの主張を唱えているのか。というようなことが分かります。

 

情報が細切れ

他に比べて本は体系的であることが多いです。

例えば、ブログ、YouTubeなどはある程度の更新頻度が求められます。Googleアルゴリズムの仕様上、検索上位やおすすめに出やすいようになっていると言われているのです。ほとんどの人気YouTuberが毎日投稿をしているのはこのためです。

こうなると体系化された思想は発信されにくくなります。制作にはとても長い時間がかかるからですね。俯瞰的だったり抽象度の高いものは本の方が圧倒的に有利であるでしょう

 

もちろん、YouTubeなどでも思想を理解することはできると思います。ひろゆきさんの生配信を10時間も聞けば、何を大切にしているかぼんやりと分かることでしょう。しかし、効率で言ったら3時間で著書を読む方が良いと言わざるを得ません。

 

作者がバラバラ

ネット媒体では、一人の人の意見をまとまって聞くことが難しいです。例えばネットで「〇〇ってなんだろう」と思って調べる時のことを想像してみてください。おそらく、知らない人が書いた記事を上から順に2、3個読むだけだと思います。それが悪いということではなく、それがメディアの特性だと思います。この人を深く知りたい、考えたいという時は本の方が適しています。

 

ネットでは、たくさんの意見を浅く知ることができます。その中で、今の世間の主流の考え方は何かが分かることもあります。ただし大抵の場合全体像が見えにくく、意見が偏りやすいというデメリットも抱えています。

 

また、テレビの番組制作のように大人数が干渉しているメディアも、指向性の弱いまとまらない主張になりやすいと言えます。

 

クオリティの差

本というのはネット媒体と違って、出版してしまったら修正が難しいです。間違った解釈がされてしまうとその人の信用を損ねるので、できるだけ間違いがないよう校正が入ります。

また、執筆にかかる時間や労力もブログなどとは大きな差があります。毎日投稿するようなネットコンテンツと比べると、間違いなく本の方がクオリティが高いでしょう。

 

 

考察 

ここまで 様々な特徴を見てきましたが、こう考えると本というのは非常に特異な性質を持っているように思います。

一人の人間の主張が本ほどのハイクオリティでまとまっているものは他にそうないのではないでしょうか。YouTubeの動画でちまちまと主張を集めてもいいですが、根本的な思想を手っ取り早く深く知った方が効率的ではないでしょうか。

 

今回、普遍的で時代によって変わりにくい「主義・主張」と役割を限定しました。それによって、ネットの長所である「知識・教養の情報伝達の速さ」という関係を切り離すことができました。従来とは違った切り口での見方ができたのではないでしょうか。

 

 

 まとめ

  • 主義・主張の伝達媒体として各メディアを切り取ってみる
  • クオリティが高く体系的でまとまったものが多い
  • 主義・主張を本という特異なメディアを有効に活用すべき

以上です。最後までご閲覧いただきありがとうございました。

すべての本の役割は、3つに分解出来ないか 〜メディアの役割〜

本を読めとは言いますが、現代ではYouTubeやブログなど様々なメディアがあります。それぞれのメディアの役割の違いとは何でしょうか?

私なりの考えをまとめました。

 

本の持つ役割とは

一口に本と言っても様々なものがあります。小説、絵本、ビジネス書、エッセイ、雑誌、レシピ本、教科書、辞典。細かく数えていてはキリがありません。私はこれを3つの役割に分解できると考えました。以下の3つです。

  1. 主義・主張
  2. 物語・娯楽
  3. 知識・教養

私の中でも検証が不十分のため、あくまで仮説です。もしかしたら他にも大事な役割があるかもしれませんし、物語と娯楽を一括りにするべきではない、などの反論が予想できますが、今回はひとまずこの分類で考えてみます。

 

主義・主張とは、思想や意見のことです。主義とはスタンスで、何を大切にするかということ、主張とは「こうするべきだ」「こうではないか」というような意見です。

物語・娯楽はつまり、楽しみです。私の考えでは、芸術も楽しむ目的であるこの中に入ります。消費という意味合いも強いですが、心を豊かにするものです。

知識・教養は分かりやすいと思います。実際に正しいかどうかではなく、知識を伝えようとしているならばここに含まれます。

 

 

これに従うと面白い考え方ができます。

 

例)本の種類(主義主張:物語娯楽:知識教養)

  • 小説(2:7:1)
  • 絵本(1:7:2)
  • ビジネス書(5:1:4)
  • エッセイ(4:5:1)
  • 雑誌(2:5:3)
  • レシピ本(0:0:10)
  • 教科書(1:0:9)

このように、この本が私に伝えている情報とは何なのかを割合で考えるのです。こうすることで別々のジャンルとして捉えていた本を同列に考えることができると思いませんか?

私の主観ですし、上記のものが答えではありません。そもそも「役割」ですので人によって作用は違うと思います。また、同じ小説の中でも特に知識がつくものや、全くつかないものまであります。

 

しかし、考え方として面白いのではないでしょうか。例えば、このような考え方ができます。

  • 私にとってビジネス書とエッセイの主義・主張が占める割合は近い。
  • 小説とエッセイは同じように知識があまり手に入らない。
  • 小説に比べエッセイは筆者の主張が大きい。
  • 絵本から物語・娯楽を削ったものが雑誌だ。

注意して欲しいのが、あくまで割合であるので、絶対的な強弱ではないということです。例えば教科書はレシピ本に知識が負けているとは限りません。

 

どうでしょうか。この考え方、面白くないですか?

 

メディアの役割

さて、この考え方は本に限ったことではないのではないでしょうか。つまり、全てのメディアにこの考え方が使えるのではないでしょうか。

 

メディアというと何を思い浮かべますか? テレビ、新聞、ブログ、YouTube、ラジオ。ここで言うメディアとは「情報の伝達媒体」という非常に広い範囲を指しています。これらも同じように考えてみましょう。

私が考えたものを書いてみます。自分と比較して「ここは違うな〜」と楽しんでみてください。

 

例)メディアの種類(主義主張:物語娯楽:知識教養)

  • テレビニュース(1:6:3)
  • ネットニュース(3:5:2)
  • 新聞(2:3:5)
  • バラエティ番組(0:8:2)
  • ドラマ・アニメ(1:8:1)
  • 映画(2:7:1)
  • 漫画(0.5:8.5:1)
  • 音楽(2:8・0)
  • ゲーム(1:8:1)
  • ゲーム実況動画(2:8:0)
  • 自己啓発セミナー(6:2:2)
  • 論文(4:1:5)
  • このブログ(4:4:2)・・・くらい?

 

どうでしょうか、面白いと感じていただければ幸いです。

 

考えられる使い方

このように、”自分にとってのメディア”の比較ができました。さて、他にどのように使えるでしょうか。

 

例えば、目的を明瞭化できます。同じコンテンツでも配分は微妙に変わります。

  • 調べものをしていたと思ったのに「楽しい」という娯楽的な目的の方が大きかった。
  • このゲーム実況者の考え方が好きだったが最近は浅い内容の娯楽になりつつあった。
  • 小説ではほんのり香る主張の部分が好きだったが、もっと主張の占める割合の高いエッセイの方が自分に合っていた。

 

また、バランスの良いメディア摂取を考えることもできます。

  • ずっと漫画とアニメしか摂取していない人は、相手の主義・主張を考える能力が育ちにくい。
  • ずっとビジネス書ばかり読んでいては個人の主張ばかり頭に入って体系的な知識やその主張の背景・歴史などを学べない。
  • ずっとウィキペディアしか読んでいない人は物語に触れず共感能力や芸術的感性が育たない。

バランスを完璧にするべきだ、とは言いませんが、自分に足りない要素を摂取しているメディアから逆算して考えることもできるのではないでしょうか。

 

他にも面白い使い方を考えてみてください。

 

 

まとめ

  • 主義主張、物語娯楽、知識教養の3つに分けられる説
  • それぞれの配分を割合で考える
  • 面白い使い方を考えて人生を豊かにしてください。

もしかしたらこのような考え方は既出だったかもしれませんが、多めにみていただけると幸いです。

 

以上です。最後までご閲覧いただきありがとうございました。

怒らないコツ 変えるのは行動だ

SNSを開けば馬鹿な人ばかりでイライラ。怒っている親を見てこっちまでイライラ。こんな些細なことで怒ってしまう自分が嫌いになる。

そんな人に一度は試してみてほしい絶対に怒らないコツをまとめました。

(私自身心理学に精通しているわけでもなく、科学的エビデンスに欠けた内容があります。あくまで私自身の考えであることをご了承ください。)

 

感情は変えられるのか?

これから紹介する方法を試した人の中には自分を責めてしまう人がいるかもしれない。なんて自分は器が小さいんだろう、こんな感情持っちゃいけないのに、ポジティブにならなきゃ、と。だがそんなことを考える必要はない。感情は変えられないというのが私の考えだからだ。

意図的に感情を変えられる人はいるのだろうか。楽しくなくても楽しいふりをする。悲しくても悲しくないと思い込む。できたように感じても、心が楽になることはない。それに感情を自由自在に操れる人がいるならば、その人は座っているだけで嬉しくて楽しくて、恋人といるくらい幸せな気持ちを作れるはずだ。屁理屈かもしれないが、もちろんそんな人はいない。

第一、変えるべき感情というのは存在しないと思う。感情に善悪はないからだ。妬みから嫌がらせをする人は、嫌がらせをしたから悪いのであって、感情を持っているだけで何もしなければ悪くないだろう。

日本国憲法第19条でも思想・良心の自由が保障されている。悪いのは基本的に行動で、頭の中じゃない

ここまで書けばもうお気づきだろう。そう、変えるべきは行動である

 

テクニック① 「私は今怒っている」と唱える

まずひとつ目のテクニックを紹介しよう。この方法はとってもシンプル。ムカッとしてどうしようもない時に「私は今、怒っている」と唱えるこれだけだ。本当に効果があるのかと疑うかもしれないがこれが馬鹿にできない。なぜなら、最速で客観視できる方法だからだ。

怒っている時、多くの人は自分が怒っていることに気づいていない。怒っているときに頭にあるのは「いかに自分が正しくて相手が間違っているか」ということだ。だから、「怒ってる?」と聞かれると自分が間違っていると言われたように感じ、「怒ってない!!」とますます怒り出す。

怒りとは極めて主観的な感情だ。客観視しながら怒る人などいない。まずは自分の感情に気付こう。

 

他人が怒っているときは?

怒っている人を見て自分までイライラした経験はないだろうか。職場で、家で、あるいはテレビの中かもしれない。このようにイライラが伝染してしまう現象では、ミラーニューロンという脳神経の働きで他人を無意識に模倣する現象が起こっているのではないかと言われている。もらい笑いやもらい泣きも同じだ。

二次災害的なストレスから身を守る一番簡単な方法は近づかないことだ。怒っている人には近づかない、イライラするニュースは見ない、愚痴の多いSNSはミュートする。

それでもどうしても避けられない状況では「〇〇さんは今、怒っている」と唱えればいい。脳に「自分は自分、他人は他人」と言い聞かせることであっさりと収まる。

 

テクニック② 自分はなぜ怒ってるのか考える

怒っていることに気づいたら次に試してほしい方法だ。正直これだけでいいくらい強力だ。この記事の目玉と言ってもいい。それは、怒っているときに「自分はなぜ怒っているんだろう」と考えるだけ。

考えるだけでも効果はあるが、初心者は紙に書き出すのを強くおすすめする。具体例でやり方を説明しよう。

  • 私は怒っている!
  • どうして? 友達を信じて貸したのにカメラを壊された!
  • なぜ壊してはいけないと思ったの? 壊してしまったことはしょうがないが、誠意が見えないから! 迷惑をかけたら謝るのが当然でしょ!

このように自分は何が嫌で、相手に何を求めているのかを考える。この例では「迷惑をかけたのに不誠実」なことが嫌で、「謝罪」を求めている。

ところで、お悩み相談の手紙を書いたらそれだけで悩みがスッキリしてしまった、という話を聞いたことはないだろうか。また、人に相談したら気持ちが楽になった経験は誰もあるだろう。どうして解決するのか。自分は何が嫌で、相手に何を求めているのか、整理できたからだ。それが分かるだけで、解決方法を考えるなど理性的な行動を取れるようになる。

しつこいようだが自分を責める必要は全くない。醜い考えが浮かんだと思っても、どうしてそう思ったかを深く考えることが大切だ。

また、紙に書き出すのは深い思考をするのに大いに役立つ。会議をするのにメモをしないことがないように、効率的な考え事をしたい時は紙とペンを用意しよう。

 

怒りって、なに?

そもそも怒りとは「期待はずれ」である。嘘だと思うならぜひ「期待はずれ」ではない怒りを探してみてほしい。例外なく相手、自分、社会、世の中のルール、何かしらに期待している。それが裏切られたときに発生しているはずだ。 

またその過程で「〇〇するべきだ」という思い込みがあることも多い。これも立派な期待の一種だが、大体の人は求めていることに気づいていない。有名人は発言に責任を持つべきだ、マスコミは真実を報道すべきだ、恋人とは秘密を作らないべきだ。こういう考えが浮かんだら「そうか、私は相手に〇〇してほしいんだ」と冷静に分析する。正しいかどうかは関係がなく、あくまで気付くことが重要だ。

 

相手は変えられない?

相手に求めていることを理解できて、それでも絶対にしてほしいと思うことがあるかもしれない。絶対に相手が間違っている、どうしても謝ってほしい、どうしてもあの行動が許せない・・・。だが、相手の考えを変えるのは難しい。

相手の考えを簡単に変えられると仮定すると、あなたの考えも相手によって簡単に変えられなければならないことになる。この難しさが理解できただろうか。

嫌な人とは関わらない、相手を許せるようになる。自分を変える方が遥かに簡単だ。

 

テクニック③ あり得るかもしれない状況を妄想する

3つ目は少しテイストの違うものを紹介する。癖をつけるのは少し難しいがその効果は絶大だ。

 

例えば、こんなシチュエーションを想像してみよう。

 あなたはずっと楽しみにしていた1日100個限定のドーナツを買おうと列に並んでいる。そこに、スマホを見ながら列に割り込んできた女子高生が。あなたの目の前に堂々と悪びれることなく立っている。そしてあなたは心の中でで激怒した。ありえない!!!

このテクニックではここで妄想を始める。この人が列を抜かすのはどうして? と自然に疑問を持つのが大事だ

例えばこんなふうに。

  • 女子高生には祖母がいた。祖母は病気で今すぐにも死んでしまいそうだが、最期にお気に入りのドーナツが食べたいと言われ、買いにきた。罪悪感はあったが早く届けるために列に割り込んだ。スマホを見ていたのは祖母の状況が気になって仕方なかったから。
  • そもそもスマホを見ていてあなたが並んでいるのに気づいてなかった。
  • スマホに夢中で隣のラーメン屋さんの列だと勘違いしていた。
  • 両親から虐待を受けており、親と一緒に出かけたことがなかった。そのため割り込むのが悪いことだと教わったことがなかった。 

ここでは4つ例を挙げたが、実際には1つ考えるだけでほとんど怒りはなくなる。

こんな状況ありえない? 大丈夫、妄想でいいのだ。「もしかしたら」という不安は十分に衝動のブレーキになる。とにかく「どんな理由があれば相手はそうするんだろう?」と疑問を持つことが重要だ。 

怒りがなくなれば冷静な判断ができる。だから抜かされたくないなら、冷静に一声かければいい。

 

相手のメリットを考える 

テクニック③が使えない場合がある。相手が100%悪いときだ。

100%のことなんてないので、大抵の場合”妄想”ができるが、例えばこんな時は難しい。

 どう考えても凶悪殺人の犯人なのに、反省していない。それどころか知的障害があるかのように振る舞って罪を免れようとしている。

本当は無罪かもしれない、と絶対に思えない態度だったとしよう。そんな時でも怒らない考え方は、

「人はそれぞれ自分のメリットに従って生きている」

犯人にとってのメリットはなにか。刑罰が軽くなること謝罪して遺族に赦してもらうこと罪の意識から逃れること。人によってさまざまだ。誰かをいじめるのはその人にとって楽しいから。怠けて働かないのは楽でいいと思っているから。

相手の信条はあなたの良心とはなんら関係がない。そういうことは裁判所の仕事だ。

 

感情と論理

ここまでの方法で怒りは収まっただろうか? ただ、そこで終わりにしてしまってはやがてストレスが溜まる。私は怒りを我慢すべきだとは思っていない。

冷静になって自分が求めていたものがわかれば、論理的に解決策を考えるべきだ。

怒りに限った話ではないが、感情と論理は別々に考える必要があると思う。それが人間的な幸せの掴み方ではないだろうか?

 

怒らないことは目的じゃない 

大好きな言葉がある。「とらドラ!」という有名なアニメのワンシーンだ。

文化祭の準備中。主人公の高須竜児は、櫛枝実乃梨という女子とちょっとしたことで喧嘩をしてしまい、ギクシャクしてしまう。共通の友達でヒロインの逢坂大河から仲直りをお願いされるシーンでのセリフだ。

「ちゃんと謝ってよね」

「俺は…間違ったことは言ってないつもりだ」

「そうじゃない、間違ってるとか間違ってないとかじゃないの。そんなことより大切なことってあるから。だから謝るとか許すとか、そういうのが必要になってくるの」

                           とらドラ!12話より

この作品ではこのほかにも多くの「衝突」が起こる。怒って傷つけて初めて本音が見える、怖くても「逃げない」ことを語りかけている。

怒らないことが目的ではない。怒ることは必ずしも悪いことではない。ただ、怒った結果本当に大切なことを見失わないようにしたい。

 

まとめ

  • 怒りを抑えるテクニックは、感情に気付き、どうしてか考える。相手の状況を妄想をすること。
  • 冷静になったら解決法を考えること。
  • 「そんなことより大切なもの」があるかもしれない。

 

 以上です。最後までご閲覧いただきありがとうございました。

そもそも、どうして人は怒るのか?

まずはじめに、私が心理学に精通しているわけではないことをここに断っておきます。あくまで私個人が筋が通っているのかを考察したものだと思ってください。

それでは、結論から言おう

 

 

「期待はずれ」だけが怒りのすべてである

 

そう!! 「期待はずれ」だけが怒りという感情なのだ!!!

 

 

 

・・・いやいや、そんなはずないだろう!! 感情ってもっと複雑で・・・そもそも感情に理由なんてあるのか?

怒りは悪い感情で、期待と結びつくなんて間違っている。初めてこの言葉を知った時、私はそう思った。

そんな簡単なわけない。こんなロジック、絶対に間違っている。

絶対に論破する!!!!

 

具体例を考えよう

 

どうしたら論破できるのか。反証、つまり当てはまらない例を一つでも見つければいい。

まずは身近なものに当てはまるか考えてみよう。自分がその立場になったつもりで想像してみた。

  1. 電車で席を譲らない若者にイライラした
  2. 子どもの酷い点のテストを見て怒った
  3. ゲームをしてイライラした
  4. 上司が嫌がらせばかりしてくるクズで怒りがおさまらない

さて、これらすべてに「期待はずれ」が当てはまるだろうか。

  1. 若者に席を譲ることを”期待”していたが、裏切られた。
  2. 子どもを思っての感情ではなく、いい点数を”期待”していた。(叱るのと感情的になって怒るのは別なのだ。)
  3. 対戦相手やチームの仲間、さらに自分自身やゲーム自体に”期待”する。自分のプレイに納得がいかない、ゲームのバグで負けた、そういうのだって期待はずれだ。
  4. クズな上司に何も期待してなどいない? いやいや、普通であることを”期待”しているではないか!!

 

なんということだ!! すべてに当てはまってしまった!!!

さらに、別の角度からもも考えてみよう。

 

  1. 電車で老婆が席を譲らなかった
  2. よその子どものテストの点が悪かった

 

この二つで上と違って怒ることはない。ではどうして違う結果になったのか。

そう、そもそも期待していなかったからだ!!

 

やはりこの説は正しかった!!!

 

 

・・・ちょっと待ってほしい。

 皆さんは確証バイアスについて知っているだろうか。簡単に言うと、都合のいい情報ばかり集めてしまう癖のことだ。

非常に強力なので、自分で選んだ例ではほぼ100%適切な例を挙げられているかどうか判別できない

 

困った・・・

 

 

 怒りを観察しよう

 

 体験というのは唯一で、情報量が圧倒的だ。そして体験は選ぶことができない。つまり、確証バイアスに左右されずに集められる絶好のサンプルなのだ。

それからまず私は私の怒りをとことん観察した。

 

怒った時はチャンスだ。すかさず紙とペンを持って自分がなぜ怒っているのか紙に思いっきり書き殴る。私は期待してなどいないはずだ。友達に、会社に、社会に、自分に・・・。怒り=期待はずれ理論を論破できないか、必死に考えた。

 

人気YouTuberの炎上を見てイライラしていたのは彼らにモラルを期待していたから。SNSで自分と違う意見の人にイライラしていたのは彼らに自分と同じ意見を期待していたから。TVで凶悪殺人犯が反省していないのを見てイライラしたのは謝罪を期待していたから・・・

 

否定できなかった。次に他人の感情も観察した。

同じだった。

 そして一年考えても否定できなかった。今日に至るまで一度も。

 完全敗北である。

 

皆さんもぜひ試してみてほしい。今怒っていないなら、過去に怒ってしまったことを思い出して。

・・・どうだろうか、すべて当てはまっているのではないか? もし当てはまっていない例を見つけたら私に教えてほしい。

 

 あれ? 怒るのってそんなに悪いこと?

 

ここまで怒り=期待はずれ を否定できなかったわけだが、そうすると一つ疑問が湧いてくる。

怒り=悪なら、期待を持つこと=悪なのか?

怒りたくないなら、何にも期待せずに現実を見ろ、ということだろうか。こうあってほしいという希望もなく、正しくあるべきという正義すら期待で、もしそうならばあまりに孤独で寂しい。

怒りはその人の価値観をぶつける行為だ。まったく怒らないのが美徳とされがちだが、怒りを乗り越えて生まれる絆もあるのではないか。

もちろん壊してしまうものもある。その方が多いかもしれない。けど、それはそれで人間っぽくていいんじゃないかな。

 

 まとめ 

  • 怒りとは「期待はずれ」
  • 怒りを観察してみよう
  • たまには怒るのだって悪くない

 

 以上です。最後までご閲覧いただきありがとうございました。