映画『ミスト』は結局何が言いたかったのか?【考察】

はじめに

この映画はネタバレ要素がかなり強いです。初見のときの自分の反応を覚えておくことが一番の楽しみになりますので、ぜひ一度観てからお読みください。

 

 

 

 

※※※ネタバレ注意※※※

 

 

 

 

 

結論 〜何を伝えたかったのか〜

最後まで諦めないこと。絶望しても簡単に死なないこと。傲慢にならないこと。解釈は人それぞれですが、私の主張はこうです。

『短絡的な問題解決に夢中になると、目的を見失う』

 

ラストシーンの意味

まず、必ず話題になるのは衝撃的なラストシーンでしょう。ガス欠で止まってしまった車。主人公デヴィッドは絶望し、怪物に食われるくらいなら、と仲間を銃で撃ちます。一人生き残ってしまった主人公のところへ戦車が通りかかり、すぐそこまで助けが来ていたことを知ります。結果的にカルト女カーモディの方が生き残ることができた。

集団自殺をしたのはカルト女ではなく、主人公。つまり彼こそが危険な扇動者だった、というのが一般的なオチの解釈です。また、登場人物のほとんどが主人公のせいで死んだという考察もあります。発電機を止めなければそのまま壊れていただろうし、ノームは死ななかった。黒人弁護士に下手な話をしなければ出て行くこともなかった。緊急時にライトをつけろと言ったのも、薬局に薬を取りに行こうと言ったのも、霧の原因を問い詰めたのも・・・見返してみると面白いほど主人公のせいです。

確かに主人公デヴィッドは扇動者でした。では、この映画の伝えたいことはなんだったのでしょう?

 

「結果がすべて」は正しいのか?

主人公はわざとらしいほど善人として描かれてきました。シャッターを開けたノームを真っ先に助けたり、火傷を負った人のため危険な薬局に行ったりしています。蓋を開けてみれば死んだのは彼のせいだったわけですが、善意でやっていたことに変わりはありません。そんな彼に最悪の結末を用意するなんて、何を伝えたかったのでしょうか。

「いくら過程が正しくても結果が全て」ということでしょうか。確かにそう捉えることもできます。その場合、この映画はかなり胸糞が悪く、救いもないことになります。しかし、それがテーマだとしたらあまりに浅いと私は感じます。矛盾はありませんがメッセージ性もない。「過程が正しくても結果が全て」だから「〇〇すべきだ」というような解答もありません。同じ理由で「結果が何であれ、主人公が正しい」も違うと思います。

つまり、私の主張は「主人公の何かが間違っていて、その結果絶望が待っていた」のではないかということです。

 

デヴィッドとノートンは何を間違えた?

主人公の何が否定されているのか。それにはこの映画の構造についてもう一度考える必要があります。映画には3つの派閥が登場します。

  • 黒人弁護士 ノートン
  • 主人公 デヴィッド
  • カルト女 カーモディ

はじめに黒人弁護士たちが店から出ていき、主人公たちが出ていき、カルト女派が生き残った。「主人公こそがカルトだったというオチ」と同時に、「心の底でバカにしていたであろう黒人弁護士とも同じ行動をとっていた」という二重のオチなわけです。

 

では、店から出た二人の目的はどうでしょう。黒人弁護士は救援を呼んでくるためと言っていましたが、真意は違います。その証拠に、主人公にモンスターの話をされるまでは保守的な考えでした。最後主人公に引き止められるシーンでもヒントが隠れています。主人公に「間違ってたら?」と聞かれるも、「もしその場合はーー私は愚か者だということだな」と嘲笑します。つまり、本当の理由は「自分が愚かにならないため」であったのではないでしょうか。

主人公たちが店を出る目的は何だったのでしょう。相談をするシーンは二度あります。はじめはカルト女が皆を扇動し、生贄にされないためと言っていました。しかし次のシーンではよく聞くと「ここにいたくない」という理由にすり替わっています。生存ではなく感情を優先し行動を決定する、全く同じ構図です。もしもカルト女がいなかったら、生存のため店で助けを待つ選択をしたはずです。

 

カーモディは善人だった

カルト女はどうでしょうか。皆を扇動し結果的に救ったものの、正しい目的をもっていたのでしょうか。実はそれがわかるシーンがあります。トイレで天の神様と話しているときのセリフです。

「悪人ばかりでないはず 全員が悪人ではありません 何人かは救うことができるはずです

そう あなたの赦しによってーー天国の門をくぐれるはずです

でも彼らのうち多くはーー永遠に地獄の炎の中にいる

もし何人か救えたら たとえ一人でも…私の人生に意義が見いだせます 私は役割を果たせるのです

そしてあなたのそばへ行ける」

生贄を捧げるシーンでも、暴行を受ける姿にとてもショックを受けています。しかしその後、店を去ろうとする主人公たちを罪人と決めつけ生贄にしようとしたところ、逆に射殺されてしまいます。一人でも救うという最初の目的は達成されましたが、侮辱されたことを許せず、最後に目的を間違えてしまいました。

こうして見ると、三人ともが目的を間違えて死んでいます。逆に、その時一番大切にしていた目的はすべて達成しています。

 

安易な解決策はーー

このように目的を簡単に間違えてしまった登場人物たちですが、それが示唆されているセリフが二つほどあると考えています。

一つ目は、主人公のいうことを聞かず、シャッターを開けようとしたシーン。わざわざ危険を冒すことが理解ができない主人公に、オリーの言ったセリフです。

固執しているんだよ」

「なぜ?」

「異様な状況の中でーーこれだけは解決できそうな問題だからだ」

感情を解決しようとした黒人弁護士も、ショットガンを取りに行ったおじさんも、主人公が薬局に行き犠牲者を増やしてしまったのも、すべてがこのセリフに集約されています。

 

二つ目は、初めて主人公たちが店から逃げる相談をしている場面です。カルト女と信者たちが生贄を捧げるのでは、と案じるおじさんが言った一言です。

「恐怖にさらされると 人はどんなことでもする

”解決策”を示す人物に 見境もなく従ってしまう」

これもまさに主人公に扇動される人々に返ってくる言葉です。ライトをつけてしまった人はまさにそうでしょう。安易な解決策は蜜の味、ということですね。

 

主人公は全てを助けるヒーローのように感じますが、実際はそうではありませんでした。解決できそうな問題に固執していたにすぎません。そもそも彼は、序盤で子連れの女の人を見捨てています。(彼女はラストシーンで軍用車に乗って登場しました)

 

だから、この映画が伝えたかったのは

『短絡的な問題解決に夢中になると、目的を見失う』ということではないでしょうか。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

余談:傲慢と仕掛け

私は試聴している途中、この映画のテーマは「傲慢な人は痛い目を見る」なのだと思っていました。実際は主人公を含め、観客さえも傲慢だという皮肉だったわけですが。そもそも傲慢さを批判するならば、傲慢でない人間が登場する必要があると思います。そのうえで「このようになるべきだ」と主張するはずです。

では傲慢というテーマには何の役割があったのかというと、ミスリードだと考えています。序盤あからさまなブーメラン発言がいくつもありましたよね。「私を馬鹿にするな」と言っているが、馬鹿にしているのはそっちだろう、と。それは最後のシーンのための布石だったと思います。カルト女が「傲慢な連中、自分だけは特別なつもり」と店を出ようとする主人公たちに言います。観客は「またか。それはお前のことだろう」と呆れますが、実際はそれが正しかった、という。見事に騙されました。

しかし、「傲慢であるかどうかは生き死に=善悪に関係ない」という私の解釈はかなり気に入っています。観客を騙しておきながら、批判はしていないという。分かりにくいですが。